教えのやさしい解説

大白法 442号
 
随自意・随他意(ずいじい・ずいたい)
 随自意とは、衆生の機根(きこん)にかかわらず、仏(ほとけ)自身の内証(ないしょう)の悟(さと)りをそのまま説くことをいい、随他意とは、仏が衆生の機根に随(したが)って法を説くことをいいます。
 伝教(でんぎょう)大師は『法華秀句(しゅうく)』に、
 「已説(いせつ)の四時(しじ)の経、今説(こんせつ)の無量義(ぎ)経、当説(とうせつ)の涅槃(ねはん)経は易信(いしん)易解(いげ)なることを。随他意なるが故に。此(こ)の法華経は最(もっと)も為(こ)れ難信難解(なんしんなんげ)なり。随自意なるが故に。随自意の説は随他意に勝(すぐ)る」
と説いて、爾前経(にぜんぎょう)は随他意・易信易解の教法(きょうほう)であり、法華経は随自意・難信難解の教法であることを釈(しゃく)し、その両意(りょうい)の勝劣を判(はん)じています。
 つまり、随他意とは、衆生の機根が千差(せんさ)万別(ばんべつ)であったため、方便を用(もち)いてそれぞれの能力・素質に応じて説くことで、已説(いせつ)の四十余(しじゅうよ)(ねん)の経々や今説の無量義経、当説の涅槃経がそれに当たります。また、随自意とは、仏の真実の悟りをそのまま説くことで、まさに法華経に当たるのです。
 末法に出現された本仏(ほんぶつ)日蓮大聖人は『新池(にいけ)殿御消息』に、
 「如来の聖教(しょうきょう)に随他意・随自意と申す事あり。譬(たと)へば子の心に親の随ふをば随他意と申す。親の心に子の随ふをば随自意と申す。諸経は随他意なり、仏一切衆生の心に随ひ給(たも)ふ故に。法華経は随自意なり、一切衆生を仏の心に随へたり」(平成新編御書 一三六五)
と仰せられているように、まず権実雑乱(ごんじつぞうらん)の世相(せそう)を糺(ただ)すため、天台や伝教と同様に、釈尊の本懐(ほんがい)である法華経が仏の随自意の勝れた教法であり、爾前(にぜん)諸経(しょきょう)は随他意の劣(おと)った教法であることを説かれました。
 さらに進んでは、『観心(かんじんの)本尊抄』に、
 「迹門(しゃくもん)並びに前四味(ぜんしみ)・無量義経・涅槃経等の三説は悉(ことごと)く随他意・易信(いしん)易解(いげ)、本門は三説の外(ほか)の難信難解・随自意なり」(平成新編御書 六五五)
とあるように、大聖人は、法華経の中でも迹門を已今当(いこんとう)の三説に摂(しょう)して随他意・易信易解の教法とし、本門こそ三説に超過(ちょうか)する難信難解・随自意の勝(すぐ)れた教法であることを御指南されました。法華経迹門は、諸法実相の理(り)を説いているものの、仏の久遠(くおん)の本地が未(いま)だ示されていないため、爾前と同じく、仏も法も本無今有(ほんむこんぬ)・有名(うみょう)無実(むじつ)の随他意と下(くだ)されてしまうのです。
 このように、大聖人は、爾前と法華経の勝劣、さらに要法(ようぼう)付嘱(ふぞく)の立場より迹門と本門の勝劣を明確に判釈(はんじゃく)されました。
 しかし、大聖人の究極(きゅうきょく)の御化導(ごけどう)は、文上(もんじょう)の本門を含(ふく)めた迹門・爾前の経々の一切を熱脱(じゅくだつ)の迹門と判(はん)じ、文底(もんてい)下種の本門の仏法を本尊として顕(あらわ)すところにあります。
 すなわち、下種・人法(にんぼう)一箇(いっか)の法体(ほったい)を、三大秘法総在(そうざい)・本門戒壇の大御本尊として建立するところに、大聖人の真実の随自意があるのです。
 私たち末法の衆生は、御本仏日蓮大聖人の御内証である御本尊を、ただひたすら信じて題目を口唱(くしょう)することによって、即身成仏の大仏果(だいぶっか)を証得(しょうとく)することができるのです。